頤和園 14

頤和園 14
頤和園の前身は清漪園と言われています。1750年に崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝い乾隆帝が西湖掘削と西山、玉泉山、寿安山の造営、更に西湖、高水湖及び養水湖を貯水池することを命じて、西湖を漢武帝が昆明池を掘削して水軍の訓練を行った故事に因み昆明湖と、瓮山を万寿山と改称しています。1764年(乾隆29年)に洋銀480余万両の費用を費やした清漪園が完成しました。当時の清漪園内には居住及び政務施設が極めて乏しかったため乾隆帝の行幸は日帰りに限られていました。道光年間以降は国力の衰退に伴い清漪園は次第に荒廃して、1860年(咸豊10年)に第二次アヘン戦争で英仏の軍隊によりその姿が完全に見えなくなるまで消失してしまいました。 1884年から1895年(光緒9年から10年)にかけて西太后の隠居後の居所とすべく光緒帝の名により清漪園の再建が命令されました。しかし経費の問題より修復は前山建築群に限定されましたが、その造営は日本と軍事的緊張が高まり軍備増強の歳出を必要とする清朝には大きな負担となりました。北洋艦隊を整備する海軍予算を再建費に流用していたことで日清戦争敗北の原因の一つとなったと言われる程、国庫を圧迫するものであったが、庭園は再建され頤和園と改称、離宮とされた西太后の避暑地に利用されました。1900年(光緒26年)に義和団の乱を鎮圧すべく出兵した八ヶ国連合軍の一部により破壊を受けましたたが、1902年(光緒28年)に修復されました。 中華民国が成立すると頤和園は清室の私有財産とされ、1914年には有料での一般開放がなされたました。1924年に溥儀が紫禁城から放逐されると、頤和園は北平特別市政府に接収され公園とされています。1949年、中華人民共和国が成立すると頤和園には中国共産党中央党校が設置されています。またその後も中華人民共和国の幹部クラスである柳亜子や江青などが園中の聴鸝館等に居住していました。1953年以降、頤和園は公園となり一般開放された。
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